自然に寄りそう/8
手間と思いをこめ、改修また改修
私の大学時代に提出した住まいについてのリポートを今読み返しているところです。内容は、私の父、母の子どものころから、私が生まれ育ち、そして兄姉らが独立して新婚生活を始めた住まいについて、おのおのにインタビューし、それらの間取りを添えたものです。
時代的には、父は大正元(1912)年生まれ、母は大正7(18)年生まれですから、明治の終わりごろから、リポートを書いた昭和50(75)年ごろまでの住まいの概観になります。私たち一家の例だけではありますが、さまざまなタイプの住まいが登場し、手前みそながらなかなかおもしろいリポートになりました。
今回はその中から、私が生まれた大阪市北区の繁華街、曽根崎の住まいのことを少し紹介したいと思います。父は昭和22(47)年、その地に薬局を開業し、母、姉、兄の4人で生活を始めました。この住まいは今はすでになく、そこには梅田駅前の再開発ビルが建ち並んでいます。
住まいがあった敷地は15坪(50平方メートル)ほどです。間口は1間半ほどしかない町家で、当初は敷地の奥は畑だったとのことですが、私と双子の弟が生まれるまでに、2回の大きな増改築を含め改修を数回行っていました。家族の成長や商品の増加にともない、住みながら増改築を繰り返していった様がわかります。
私が2歳の時、いよいよ手狭で限界と考えたのか、父は兵庫県西宮市に中古の一軒家を買い求めました。父は店のことがあったので曽根崎に住み、母と子どもたち計7人は西宮で生活することになったのです。
もちろんその後も曽根崎の家にはよく通いました。今思い出されるのは、父がこの小さな店と住まいを少しずつ何回も繰り返し改修していたことです。戦後間もなく建った町家でしたので、建設資材も粗末なものでしたが、父にとっては店と住まいが一体となったこの町家は生活の大半を過ごす空間でした。何度となく住まいに手を加えながら暮らしを大切にしていこうという父の思いを感じました。
住まいをいたわっていくことに労を惜しまない父の姿に、豊かな住まいは手間と思いを込めて生まれてくることを教えられたように思います。
=建築家・中北幸、イラストも